少年が竜の背から賢人の庵に降り立った瞬間、〈その人〉は手にした杖で二回、コツコツと足元を叩いた。
歓迎の意味か威嚇なのか読み取れない外貌。古めかしいローブから覗く腕は今にも折れそうだった。


かの偉大なる【賢者】は弱々しく賤しくさえ見え、萎びた黄土のような肌をしていた。
流れる水に喩えられた筈の長髪も洗濯女たちの髪程の艶やかさも無く、

彼が――いや、恐らく大陸の人々全てが――思い描いた姿とまるで違っていた。


それでも尚、大賢者を讃える聖堂の大理石よりも滑らかで重々しい王座に凭れる本人の佇まいには抗えぬ威厳があった。

少年は王都で学んだ作法に習い跪き、頭を垂れた。

「偉大なる賢者よ、お願いがあって参りました。」


「人間共を救ってくれと言うのだな。」


「……あの哀れな獣たちもです。」


賢人の眉間に更に深い溝が刻まれた。


「彼らは僕らの一部です。どちらか一方のみが救われることはありません。

元の世界に帰さなければ……この剣が鍵になるのは分かっています。」



何処まで識っているかを量ろうとする賢者の視線が、蛇のように少年の身体を這った。




――少年よ、お前は疑問を持たなかったのか?

 何故自分が選ばれたのか。選んだのは誰なのか、と。」


「……」


「人々の無数の祈りが聞き届けられないのは何故だ?と。」


古の詩歌を吟じるような深く溟い嗄れ声が、少年の頭上に降り注いだ。

それは不思議と、永遠にも思えた孤独の乾きを束の間潤す響きを持っていた。

かれは迷いなく答えることが出来た。


「僕は、その問いのため――貴方に答えてもらうために、ここまで来たのです。」


突如、吹き出すように賢者は笑い出した。

少年がぎょっとする程の破裂したような、耳障りな甲高い笑声だった。


「アッハ……やはりな。私も同じだった。

しかし、無知蒙昧な人間共が作り上げた王座には何者の姿も無かった。

いや、私には見得なかったのか……私は、その見つからなかった存在に為ろうとした。」


賢者の声は徐々に熱を帯び、古竜の息は憤怒に荒らいだ。



「狂える賢人は闇と魔と取引をし、力を得た。

 神を騙り、イーヴナスの金天秤を弄び始めた。」


奇妙な、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、賢人はゆっくりと枯れ枝のような両手を広げた。
(強大な魔物が黒き双翼を開く姿宛ら――)


その骨ばかりの五指は更なる何かを掴もうと限界まで広げられ、小刻みに震えていた。
(血までも酒に冒された男たちのように――)




「貴方は、いったい、何を。賢者よ、あなたは一体……」

目の前の賢者から放たれる異様な空気に圧倒され、少年は得体の知れない怯えから、完全に言葉を奪われた。



畏怖ではない、どんな魔物よりも恐怖を覚えるその男――神の如き存在の筈であった――は、
憎しみさえ込めた目で彼を見、勝利を告げる喇叭のように高らかに嗤った。



「君は私の足跡を辿ってきたのだよ。

私が最も欲し、手に入れられなかった唯一のもの――大いなる世界への扉を開く《鍵》を携えて!」



少年は愕然とした。


絵物語に描かれている通りに、賢者の衣はかつては白かったのだ。

しかし目の前のこの男は、禍々しい欲望にとり憑かれている!




「無知とは何よりの幸福。
だが皮肉な事に人間とは知識を欲する最も愚かな獣だ――

私もお前も此処にいる、それが何よりの証ではないか?」



狂気に囚われた賢人が一瞬だけ垣間見せた透徹した眼差しと明瞭な言葉は、
彼を――恐らく自らが無数の魔物たちにそうしてきたように――鋭い刃で貫いた。



もしかしたら自分は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないか……?

少年は慄きここが崖とも忘れ後ずさったが、一たび歌い始めた賢人の陶酔は覚めず、狂った詩歌は紡がれ続けた。




「……もしかしたら、私も英雄になり得たのかもしれないが。

ここでお前の手に掛かれば、お前が次の私となるか?

只人であるお前は私に触れられない。雲の王座に座れぬようにな!




真実を探し求め、狂ってしまった魔導師、力を持て余した偉大なる賢者――

彼もかつては自分と同じように、伝承の英雄に憧れたのだろうか?



魔物とよく似た鈍色の目には、もう、人間らしい感情は見つけられなかった。






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