「杖を下ろすのだ、ヴィカス……石は渡さぬ。」
「ならば奪うまで。」
囁く弟子の声に、類まれなる意志の強さと叡智とが秘められていること――老いた肩を支えるようにそっと添えられている杖持たぬ手の細い指に――いたいけな孤児であった十数年前の彼が未だ色濃く残っているのを知り、老魔導師は視線だけをほの暗い塔の石床に落とした。
「残念だ。君は孰れ、私を凌ぐ魔導師になっただろう。だが、ヴィカス……君は此処に来るべきでは無かった。」
「導師よ、あなたはいつも正しい。確かに、寂れたあのロンガの下町で来る日も来る日もワートを挽く、そんな一生も良かったかもしれません。」
強い夏の西日か若しくは懐かしさのためかローブに隠れた目を細めた若き魔導師は、微笑んだようにも見えた。半世紀、それ以上を振り返る老成した仕草だった。
「しかし私は智を求め、得た。同時に智もまた私を捕らえたのです。その恐るべき力で――」
「何が望みだ。秘石を己が手にして如何にする。」
「お惚けになる! 貴方なら、凡その見当が付くでしょうに。〈あれ〉は真に力有る者が持つものです。」
それまで毅然とした宛ら彫刻のようであった老魔導師ブレイの顔に、初めて苦々しい嘲笑が浮かんだ。
「神々の時代から受継がれし叡智の結晶を我が物に、と?王都の法王でさえ手に余る秘宝を手中に収むるに相応しいと考えておるのか。君は優秀だが少々自らを恃むに過ぎる。」
「ではこうしましょう。秘石は真に力を【求める者】こそが持つもの。異論は御座いませんよね、いえ、私の智がそれを認めませんよ、たとえ貴方が魔導師の塔ガルラダスの最高指導者であろうとも……。」
刻々と日は傾いていた。落ち着き払った声と裏腹にヴィカスの焦燥はローブに覆われた蒼白の肌をじりじりと焼いていた。
500の3倍を超える魔導師を束ねる老練の師は、彼の一瞬の動揺の隙を突き俊敏に術を用いて弟子の腕の中から擦り抜けた。
「いけない、もう陽が落ちる……! そこを退いて下さい!」
祈りにも似た請いを口にしつつも、若き天才魔導師は知っていた。何度懇願しても師が譲らない事も――これから自分の冒そうとする行為を決して許さないのも――。
「ヴィスカー……!」
――魔導師にとって唯一の尊き人が最期に叫んだのは、魔術師たちが編み出し古代から受け継がれてきた千を超えるどんな呪文でもなく、自分の名だった。誰がつけたのかさえも分からぬ忌まわしい、彼に無数に浴びせられた嘲りと罵りのなかで最も呪われた言葉の筈だった。
この名を呼ばれることはもう二度と無いだろう。
そしてそれをこんなにも幸福と感じたことも、どのような過ちを犯したとしても、これ以上に許されざる罪は自分にとって無いだろうということも――。
今初めて唱えた呪文はガルラダスの誰もが、恩師ブレイでさえ扱えない高度な魔術であった。禁忌とされる秘術が記された故に封印された書物や、古代の碑文を彼だけが読み解くことが出来た。
ヴィスカースは古き名と共に過去への扉を固く閉ざした。振り返らぬよう、誰も見たことのない場所へと飛び立つ為に。