この一人の少年の死とほぼ同時に、イーヴナスの中世前期は終わったと述べても良いだろう。シルニア中紀と呼ばれるこの年代は賢者ガルブレイスの名が最も過大評価されていた時代でもある。


 天才的な錬金術師であったが、自らの智に溺れ次第に狂気に囚われていったガルブレイス。元の名をヴィカス、 彼はあらゆる学問に秀で魔道に通じていただけでなく(樫のヨール族出身であるという説まで出た)予見の力も持っていた。 どの程度かまでは憶測の域を出ないが、天変地異などの前触れ時だけ姿を現すことで、徐々に人々の間で神格化されていったとされている。
 この人智を超えた能力を得たのは彼を一介の石臼引きの孤児から抜擢し魔道の道へと導いた恩師を殺害し秘石を奪った為と伝えられており、これはガルブレイスの貪欲さと非道さをよく表すエピソードであろう。


 また「英雄の剣(聖剣)」はガルブレイスの創造物との記述のある書も幾らか散在するが、それらは完全なる誤りである。

 ガルブレイスは人間界及びそれ以上の世界を完全に掌握しようと聖剣を欲していたのだが、既に魔と契約していた非人間の元魔導師には手出しが出来なかった。

 聖なる樫の森から剣を運び出してくれる人間を「イニシュ・ファウラ(運命の崖)」で待ちわびていたのである。


 聖剣が伝説上の武器に過ぎないのか、実在したのか。これを論じるには未だ研究が十分でない。 古代の詩人アシノンが詠ったように、それは最も古いドラゴンの牙かもしれないし、名匠の手によるかもしれない。

 筆者が断言できるのは世界各地に散らばる「聖剣の欠片」は全くの偽物だということだ。 1482年にローエナに集められた聖剣の破片は、材質、年代共にひとつも一致しなかったことは本書を手に取る読者の皆さんならばご承知であろうし「ドラゴンの火炎でさえ破壊できない」物質が如何にして砕けたのか、また「ヨールすら出自を知らない」程古い曰く付きの品が容易く人の手に渡るとは考えにくい。


 紫の瞳の女――物語の序盤でただ一度だけ登場するこの女性を、恐怖に囚われた少年が見た幻覚とみるか、 女神或いは巫女などの予言者が神託を授けに現れた一種の神秘体験と捉えるか。長年、学者たちの論議の的となってきた章である。

 忘れてはならないのは「森厳な女」の外見が極めて特徴的であるという所である。 右半身は美しい女、左半身は剥き出しの白骨状態、これはイーヴナスに伝わる無数の民話の中でも極めて特異な人物造形であろう。少年だけが見、声を聴いたこの女性が何者なのかは依然として謎のままであるが(*注1) 彼女が神的、霊的な系譜に属するのは間違いないだろう。 ヨールの詩人に先んじて英雄に指針を示す役割を与えられた特筆すべき存在とも言える。


 (中略)


 この物語は大体において記述が曖昧であり、キルローナン地方に伝わる唯一の原本の保存状態も良いとは言えない(数頁の破損が確認されている)。イーヴナスには中世紀以前からも口伝でこの何倍という長さの伝承を数十編も暗誦し後世に伝えた吟誦詩人らが確かに存在しており、その地位は近代における詩人と比較にならない高さであり、英雄に劣らず何処の王にも歓待され尊ばれたという。



 けれども、キルローナンの霧深い森に若き英雄の墓を建てられるのならば、詩人でもないしがない一歴史学者である私は、名前すら定かでない彼のために、こう記したい。


「楔を抜きし者」

「輪を斬った者」

「夢潰えし者」と――。



 英雄は剣を滅ぼすまでには至らなかった、と、この孤独な物語は締め括られている。 彼の最期の望みは叶わなかったのだ。

 しかし、剣の美しさに魅惑され、英雄と祭り上げられた一人の少年の死後まもなく、魔物達は自らの属する場所へと還った。 聖剣は神樹を鞘とし再び封印され、ガルブレイスによって揺らいだ世界の均衡は保たれたのである。


 この物語には一切記されていない(ただの一行さえも!)のが不思議でならないが、彼が呼び寄せた大陸中に轟いた耳を劈くばかりの稲妻の直後、魔物や二十年戦争に劣らず人々を苦しめたであろう各地の度重なる旱魃が窺えるこの時代に「恵みの雨」「祝福の慈雨」「女神の涙」と語り草になった、これもまたひとつの伝説となり得るほどの降雨があったという。

 七日の間降り続いた優しい雨の後、洗われたような澄み切った青空にかかる大きな虹、戻ってきた鳥の歌声の美しさを謳う「ケレアの喜び」を元にした詩歌は、時代の移ろいと共に様々に形を変え、現在も五月祭には欠かせない歌の一つとなっている。


 若き英雄の生涯は散在していた精霊族によって詠い継がれ、シルニアに続くドゥラーナ時代前半には大陸中に知られるようになっていた。 長らく森に隠遁し、自らも古い伝承の中だけの存在になりつつあった緑の民は、優れた詩い手として再び表舞台へと戻ったのである。 そして、偽りの神「古よりの大賢者」への盲信から解き放たれた人々は、荒廃した大地をイーヴナスの名に相応しい場所へと復興させた。


 時に英雄の器でないと酷評される彼だが、その真摯な姿勢、傷つき迷いながらも運命に挑み続けた勇敢さと情熱は、竜や精霊族までも突き動かし現代に生きる我々にも「真の英雄とは」と疑問を投げかける。



 幼い彼が伝承の英雄に無邪気に憧れたように、筆者もまた、今もこの大地の何処かに名も無き英雄が眠っているはずだと、拙い憧憬を抱き続けているのである。



――【歓びの地、イーヴナス】オランイェ・マクウィレム著より抜粋




*注1 「竜の章」は本書の初版当時(1978年)には発見されていなかった。





Thank you for reading. 

Instead of an afterword from the author