後書きに代えて



 まず、ここまでお目を通して頂き誠にありがとうございます。


 「―Aoibhneas―」は一応ダークファンタジー、神話や伝説風の物語という体をとっていますが、元々は「イーヴナス絵巻」という名前でした。そう、これは小説ではなく「絵巻」なのでした。

 構成も語り部も変化し外伝を含めるとてんでばらばら、ストーリー的に特に目を引く展開もなく、ただハタチ位で絶望のどん底で引きこもりながらパソコンの向こうに広い世界を――狭い部屋を抜け出してどこまでも思いを馳せ――あんまりな人生(信じ難い事にまだ序章だった)とそれ以上に、一人の孤独極まる「少年」という分身を通して思いっきり世界に投げかけた問いと、その答えとして受け取った、拙いなりの一種の神学的めいた結論だったのでしょう。


 この物語をイメージする際、アイルランドのトラディショナルミュージックバンド「Lunasa」――私の中の「音楽」というものを根底からひっくり返す衝撃を与えてくれました――のGoodbye MissGoodavich/Rosie's Reelを繰り返し繰り返し、何百回となく聴きました。その度に切り立つ断崖や短い緑草に覆われた島々、灰色がかった空、寂しげに佇み、また直走る少年の姿や「ここではない、何処か」に居る英雄達が視えました。

 後半の神がかったアンサンブルや疾走感に何かとても神秘的なものを感じ、浸っていたのです。


 この曲が一曲目に収録されているアルバムのタイトル「otherworld」が「あの世」「異世界」、彼らの地方の神話の英雄の世界を表していると大分後になって知りました。アイルランド中心に色濃く残るケルト神話のことでしょう。

 一見なんと読むのか、何語なのかさえ分からない「Aoibhneas(イーヴナス)」や「Geasa(ゲッシュの複数形)」はまさに生き延びたケルト人のことば、ゲール語であり、私の魂は今でもあの辺りを彷徨っているのかもしれないと思うほどです。
 きっとどの国にお住いの皆さまにもそのような、強く惹かれる特定の地域があったりするのではないでしょうか?

 妖精や精霊の住まう美しい自然に憧れ夢見、郷愁さえ覚え何もかも忘れていても、真に描ききりたかったのはこの物語だったのでしょう。「ノルの絵日記」よりも先に「―Aoibhneas―」はほぼ完成しておりました。文章や構成を考えることは無いので、更新できなかったのは単に鬱で絵が描けなかった、というかパソコンの電源も入れられなかったためです。すべての挿絵は物語と同時に描き始めており、描きこみや仕上げが足りなかったのみで一枚も追加したものはなく、逆に何枚かを削りました。

 ただ20年の歳月、特にこの激動の数年を経てからではないと書くことが出来なかったであろう箇所も幾つかありました。この物語も永い眠りにつき、PCやメモリースティックを旅しながらひたすらに「その時」が来るのを待っていたのでしょう。


 画風に関して語れることはもっと少ないです。このような文章主体の物語の傍らに余りに鮮明な画をデーンと置いてしまいますと、それこそ逆に想像の翼を折られてしまうように感じるので「絵巻」らしく時代考慮し、冒頭は故意に色数を極端に制限していました。ですが、使用ツールも増えてきて徐々にどうでもよくなってしまい一貫性を欠き、このようになってしまいました。しかし外伝では時代すら何百年単位で古代に現代にと飛ぶので、わざと画風を変えたようなところもあるのでしょう。



 これからは情報源以外にあらゆる気楽な娯楽も芸術も動画に移行するかと思います。もうなっていますね。スマホ一つあれば個人でも大変高画質、映画的な作品も作れる時代です。デジタルの翼の非常な軽さは良し悪しですが圧倒的に良い面の方が勝りますから、とりわけ個人でのクリエイトの強い味方になることでしょう。
 私も自作の音楽と映像を組み合わせた作品、動画作成アプリの機能の新鮮さに刺激された詩の朗読などをYouTubeにあげています(The ・雑)が、このツールの進化に引っ張られ思いがけない作品が生まれる面白さは、まさにネット黎明期の10代の頃に感じた新しい創作への無限の可能性を想起させます。



 しかしながら「―Aoibhneas―」は書籍化することはできない、絶対にこのかたちでなければいけないし場所を動かせなかった。

 絵巻という名のこの構成はPC(スマホでは残念ながら満足にレイアウトされないです、タブレットならギリギリ大丈夫かな)だとスクロールが必要になり読む側のタイミングをある程度コントロールできるであろうこと、紙媒体では絶対に不可能な(行間や頁を繰るという形でしか)不意打ち感と言いますか、空気感、時の流れが表現出来るのではないか?と、そこに大きな魅力を感じたのです。

 絵を挟む位置や背景色文字色の変化だけではなく――ですからこれは非常に古い時代から連なる一つの神話という構想を持ちながらデジタルでしか出来ない、という面白さが当時から無意識にあったのだと思います。


 座ったままVRで夢の世界にゆける、AI自動で絵画を生成してくれる。それよりも人間に授けられた「想像力」と「感性」という素晴らしい賜物で、夫々の情景をこころに広がる無限のキャンバスに描いてほしい。もしかしたら時代に逆行した芸術を私は目指しているのかもしれません。


 「芸術」というものを、私は一般に定義される「絵画(映画、漫画)、文学、音楽」これら以外にもはるかに広義に解釈しています。
 動物の本能、三大欲求「食欲・睡眠欲・性欲」とはまた違う人間だけに許された、生命力の源となる本質。医療や司法の及ばぬ極限状態でさえ自らを鼓舞するもの。感動、魂が震えて喜ぶこと。小さなユーモア、誰かの為の涙、祈り。これらをもたらす全てのものと、揺さぶられ響くこころ。



 真偽は知り得ぬところでありますが、林檎が落ちたのを切っ掛けとするならば、おそらく何物も抗えぬ重力に反して唯一飛翔することの出来る「ちから」が潜んでいるのが人の心であり、私はその無限の想像力を以て「人間とは空飛ぶ林檎である」とさえ軽々しくも断言してしまう愚か者です。あらゆる創造の前には無謀なる想像という名の先人がおられますから――。

  それはこのお話のなかではヨールの詩人と高僧によって語られていますね。
 遥か頭上を自由に翔ける鳥を見、飛びたいと願った原始の憧れを蝋の翼という夢想のままで終わらせなかった人々の情熱は、今現実を飛び回っている。その姿を日々、星の見えない夜空にすら認めてなんら疑問に思わない私たちですが、初めて無謀な野望を実現しようとした時、いえ口にしただけで皆、わらったのではないでしょうか?



 「人が空を飛ぶなんて無理なんだよ。」「あれは『不治の病』なのだから、治療法も無い。」「月に行くだって?馬鹿げている。」と。

 人々は幾たび、固定概念や世間の常識が固めた壁を、自らの信念で鍛えた槌で打ち砕き、ここまで歩みを進めてきたのでしょうか?






 声なき歌、翼持たぬ人間を飛翔させる魂の叫び――遠くから風に乗り、私の中から響いてきた切れ切れの叙事詩が、願わくば何方かに木霊しますように。


 (ちなみに少年の名前は本当にちっとも聞こえてこないので設定にすらありません。創作を解説するのは創作そのものであるべきで、付け加えると大変無粋になってしまうけど……かれの名前を知っているのはヨールの詩人だけなのでしょうね)



 ここで、また彼女の力を借りて締めくくりたいと思います。



海より産まれ 地に生き 空に憧れるものたち……


脆き弦とは裏腹に 雄々しく羽ばたくその調べ


人の子よ おまえの歌には翼がある 



Those who come from the sea,

lives on the earth,

yearns for the skies...


Your melody is full of strength,

Contrary to its frail strings,

Soaring high in the air.


Human,

Children of the unsung heroes

Wings are on your song.


 ヨール《樫の精霊族》のこの詩は日本語と同じくらい英詩(適当だけど響きを大切にしました)も大切なので載せておきます。

 「ーAoibhneasー」の登場人物は少な、みな痛々しいまでの無力に苛まれ苦悩する、傷を癒すどころか明かりを灯す魔法一つ使えない(修行を積んだ魔導師やヨールの高僧ならいくらか出来るのでしょう)ファンタジーです。
 少年も絵にすると美形になってしまいますが、選ばれし伝説の主人公なのにいきなり何もかも失くし代わりに途轍もない重荷と絶望を背負わされた挙句、誰にも「美しい」などど誉めそやされず、何時でも傷だらけ褒められるのは剣だけ。楽しいのはすべて過去で夢は一つも叶わないまま死に、何の救いもない……と思いきや実はその逆なのです。


 この物語には唯一の英雄も、完全なる悪敵もいないことは、ここまで読んでくださった皆様にはお分かりかと思います。
 教科書に載っていない偉人が、志を共にし支え合ったともがらが、今までにどれほど居たことでしょう。

 'Human, Children of the unsung heroes……’ 

 私はこの一節に全てを込めて、一人書き綴っていたのだと思います。
 それこそ永遠に明けないような暗闇のなか、誰に読まれることもなく、謳われなかった無数の英雄たちを称えたいが為に。


 ーAoibhneasー」は命あるもの――中でも人類を――全体を包む大きな深い哀しみと、それと共に在る慈愛のような赦しと祈りと、絶望と並んで何時までも輝き続ける希望との、高らかな人間賛歌なのです。

 人に対して最も非道で残虐な牙を剥くのは人間でしょう。しかし過ちを悔い涙し心を痛め、その深い傷を癒すことが出来るのもまた人に他ならないと思います。抗えぬ災厄を前に人は余りに無力です。個であれば尚更、祈ることしか出来ない。

 けれどもその非力さ故、誰かの為に心から祈ることが出来、手と手を取り合い巨きな力を持ち得るのです。ヨールの詩人の言葉に少年が慄き始めは拒絶したとおりに、村を王都を滅ぼす劫火も、闇夜に寄る辺なき人々を照らし温める明かりも、同じものなのです。この物語の中で自然と人を苦しめた「渇き」を潤す水も災害となり得ます。


 光と闇、天と地、善と悪、男と女、英雄と魔王(生と死、無知と叡智、無欲と貪欲、呪いと祝福、などもこの物語には含まれるでしょう)……。

 対極に位置するこれらの境目は曖昧であり、いつでもどちらかに傾いてしまう危うさと矛盾を孕んでいること、完全なる敵対ではなく融合と和解、調和の美しさを……互いが無くては成り立たず、奇しくも激しく求め惹かれ合う、その一瞬の奇跡的な出逢いにより全てが生まれくる――私が感じた世界をこの物語に端的に、しかし大胆不敵にも明確なallegoryを用いて記そうと試みたのでしょう。

 とはいえいつものように考えなしに書き始め、テーマは壮大ながら内容は……でお恥ずかしい限りです。

 森厳な古代の預言から、詩人の詩歌、少年の孤独な呟き、ヨールの賛歌。司祭の許されざる苦悩と疑念、古竜の諦念、英雄の無力の叫びと絶望の嘆き、賢者の犯した大き過ぎた罪の告白、虹のかかる青空に響き渡る五月の歌まで、すべてが絶え間なく悠久を流れ続けるひとつの歌なのです。

 私にとって絵や音楽もかたちを変えたことばなのです。これらは全てイメージを伝える手段であって、あまり違いは無いのです。


 絵画でも色相環の真逆にある色は「補色」と呼ばれ、隣り合えば色の鮮やかさを引き立たせ輝かせるのです。夜と昼とが交差する黄昏と夜明けの一瞬こそが、最も複雑な色彩に富みその美しさは例えようもない。

 限りなく見事に創られたこの「世界」――目を背けたい程の眩さと残酷さの二つの面(おもて)を見られるのは、おそらく我々人類だけのはずです。
 それはまさに、どちらも自身に内包されたものだからではないでしょうか。自らのうちに欠片も無いものを、人は生物は知覚できるのでしょうか。


 この世界でもっとも祝福され、同時に呪われた、人という存在。


 「美しいものが、みな、どこか哀しいのはなぜなのだろう?」
 幼いころからのこの永遠の疑問に「ノルの絵日記」で可愛らしい妖精の言葉を借りて答えを出したつもりでいましたが、その究極が「にんげん」なのかもしれない、と思うようにもなりました。

 それは光の衣を纏う、崇高と秩序の天界に居る聖人たちの気高い姿ではなく、エゴや煩悩にどこまでも振り回され、後悔や苦しみの泥沼でもがく生々しい美しさなのかもしれません。醜さのさなかに光るどうしようもない美しさに、かなしみを覚えたのかもしれません。

 この哀しさが一般的に悲哀と呼ばれるものと同義なのかはわかりません。おそらく違うでしょう。かといってもちろん上から目線の憐れみなどでもないのです。


 人ではなくなった、と自他ともに認める存在に成ってしまった賢者こそが最も人間らしく、かなしい。短いながらヴィスカースの描写には彼への深い愛を、物語の結末には果てしない罪と孤独からの大いなる救いが込められていたのだろうと、読み返してみて思います。



 若く無知だった私は、少年と同様運命を呪いながら逃げたいと踠きながら……最も賢く愚かで、弱く強く汚く美しい、そんな卑しくも尊い私達「人間」に捧げた、答えの無い問いと嘆きとに呼応する、どこまでも肯定の哀歌、愛歌を詠ったのです。

 人々の「嘆き」にはこうあって欲しいという「願い」への裏切られた哀しみが込められており、その切なる灯火が消えない限り太陽は幾度でも大地から蘇るのでしょう。




 この物語にぴったりのTalisk」の「Echo を見つけたので、良かったらお聴きになってください。まさに「木霊」ですね。


 私の音楽を聴いて下さってありがとうございました。

 にも聴かれない歌は無いものと同じになってしまうので、あなたの命と心の耳に感謝します。

 


31st Jan, 2024 Erina

'Hold back the setting sun! '

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pulchra fabulas 

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